僕の傘を探しに

26歳OLの雑記

【30の反撃】悩むアラサー女に寄り添ってくれる本を紹介してみる

反撃がうまくいかなくても、こころざしの一つくらいはもって生きるべきなのではないか

本当に、その通りだと思う。

アラサーになった。私と同年代の人たちはきっと社会人としてそれなりに経験を積み、昇級しているか、もしくは転職して新しい職場で頑張っているだろう。

会社。学生しか知らなかった今の自分にほんの少しばかり社会の厳しさを教えてくれた場所であり、私のこの4年間の、大半の時間を過ごした場所である。

働いている人は誰もが経験しているだろう。頑張っても頑張ってもなかなか認められない悔しさと、新しい集団に所属しなければならないというストレス、そしてそのストレスに対してとても見合っているとは思えない給料。

だからこそ、好きなことを仕事にしている人が輝かしく見えるのだ。
好きなことを仕事にしている彼らは、自分の希少性に価値を見いだし、私たちに自分には到底叶えられるとは思えないような夢を見せてくれる。

そんな社会を少し経験し、その不条理さともっとおもしろいことがしたいと願う若者に向けて、ソン・ウォンピョンが書いた新作「30の反撃」の書評を今日は書いていきたい。

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ソン・ウォンピョンは、2020年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞した「アーモンド」を書いた作家である。

結局、平凡な会社員でいることは、一番現実的な道である。さらに、社会というあまりにも大きな存在に対して、私たち一個人が「反撃」という形で抗い、社会そのもの変えることができる可能性は限りなく低い。
そんななかでも、こころざしをもって生きていってはどうか。作者の言いたいことはこういうことであろう。

ひとまずあらすじを紹介しようと思う。

主人公であるキム・ジへは30歳の女性である。ジへはディアマン・アカデミーという大企業の傘下であるスクールのインターンとして働いている。ここは、ウクレレ、人文学などの教養講座を主に社会人、子どもに対して開いているスクールである。ジへは映画や、ショッピングモールなどを手掛けるディアマングループの親会社に入り、自分が企画したイベントを開くのを夢見ている女性である。ディアマン・アカデミーで経験を積み、ディアマングループの他の会社に異動するためインターンで働いているのだ。

そして一緒に働くことになったインターンのギュオクと出会ってから、彼女の平凡であった日々が変わっていく。

ギュオクは大学時代にアルバイトで書いた論文を大学の教授に盗まれた経験から、狡猾で裕福な人間がお金を以てして成功する社会に反感を抱いている男性である。

ギュオクと会ってから、ジへはひょんなきっかけからディアマン・アカデミーでギュオクと一緒にウクレレ講座を受けることになり、そこで作家志望のムインと、ネットでモッパンを配信するナムンおじさんと出会う。

ギュオク、ムイン、ナムンおじさんの三人は、全員が自分の創作物を大企業や、裕福な人間に盗まれた過去があった。創作物とはギュオクは大学時代の論文、ムインは自分で書いた脚本、ナムンおじさんは自分で編み出した料理のレシピである。

仲が深まり、ジへを含めた彼らは自分の作品を盗んだ人物へいたずらのような仕返しをするようになる。

ジへとギュオクもお互い両想いなので恋愛ものでもあるといえよう。

この先どうなるかは、ぜひ手にとって確認してほしい。

小説の中に、こんな一説があった。

すべからく人は、適当に仕事をするべきだ。正確にいえば、分相応に。与えられた時間と給料に見合ったぶんだけ。…そうすればいたずらに利用されたり、当たり前のように搾取されることもなく、適当にやることだけやって抜け出すことができる。

本当に、共感してしまう。どんなに頑張っても、すべての頑張りが認められる訳ではない。認められない、認知されない、目に見えない頑張りばかりだ。ジへはインターンで講師の講義資料をコピーしたり、講義の際の椅子を整えたりと、なんだか事務職のような、私と似たような仕事をしているから、共感してしまうのだろうか。

面白味の感じない仕事など、自分が嫌な仕事など、やらないほうが良いに決まっている。自分の限りある人生の一ページを、嫌なことで一杯にするなんて、確かに搾取だと思う気持ちもわからなくはない。

冒頭に書いたソン・ウォンピョンの「反撃がうまくいかなくても、こころざしはもっていきるべきだろう」という言葉は、矛盾しているかもしれない。

社会を思うように変えることなどできないのに、気持ちだけ持っていても無駄だと思う人もいるだろう。そのことは作中も触れられている。

きちんとした職について貯金をし、現実的に生きるべきだと言うジへの弟と、社会にインパクトを与えるべきだと言うギュオク、両者の主張をジへは「正反対の命題」と表現し、「ただ二つの概念に共通点があるとすれば、どちらも向き合うのは辛いということだった」と書いている。

いつだって現実と向き合うのはつらいのだ。それも、自分の不安が明確になっていないときほど、解決に時間がかかるものだ。この問題はいつ解決するのだろう、もしかしたら一生続くのかもしれない。この問題に向き合い続けるのは心に大きな負担がかかると思う。しかし、アラサーの誰しもが同じ悩みを抱えているのではないかとも思う。

 さらに作中ではジへの結婚し、子どもを育てる専業主婦になった友人、ダビンと話すシーンがあった。ダビンは「一人の時間があるジへが羨ましい」言ったことに対し、

いいなという言葉は、むやみに使うものではない。あんたは子どもがいて、お金を稼いでくれる夫もいるじゃない。自分のことだけを考える時間がどれだけつらいか、寂しくて怖いか知っているの?

と心のなかで呟く。そう。自由に遊んでいる分には一人は楽しい。でも、夢ばかりは見ていられないのだ。ふとした瞬間、不安が押し寄せてくる。自分は、これからどうなってしまうのだろう、と。

そんな不安に寄り添うように、この小説の最後はこの文章で締め括られている。

私が宇宙の中の塵であっても、その塵がどこかに着地する瞬間、光を発する虹になることもあると、ときどき考えてみる。そう考えれば、あえて私が特別だと、ほかの人とは違うと、力を込めて叫ばなくても、私は世界で一つだけの存在になる。そう思うようになるまでかなり長い時間と努力が必要だったが、少しばかばかしいどんでん返しがある。そんなに頑張らなくても、そもそもそれはいつだって事実だったということだ。

塵がどこかに着地する瞬間、光を発する虹になる。いや、どこにも着地しなくても、自分の存在それ自体が、きらきら輝く虹なのだ。社会に亀裂を入れられなくても、憧れの職業につけなくても、貧乏でも、半地下に住んでいるとしても。